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頼朝が義経を殺した理由なぜ?静御前との別れ最期も合わせて紹介!

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兄、頼朝の役に立ちたいと思い平泉から駆け付けた義経。

壇之浦の戦いで得意の奇襲作戦で勝利を収めたあたりから、頼朝との関係に亀裂が入り始め義経は可哀そうな最期を迎えてしまいます。

さて、頼朝は弟である義経を何故殺さなければならなかったのか?義経の恋人静御前とはどんな別れだったのか?気になりますよね!そこで!

「頼朝が義経を殺した理由なぜ?静御前との別れ最期も合わせて紹介!」としてご紹介していきます。

 

頼朝が義経を殺した理由なぜ?

頼朝と義経の再会

 

頼朝と義経の父、義朝が「平時の乱」で平清盛に敗れた後、14歳の頼朝は東国で捕らわれの身、2歳の義経は京都の鞍馬寺に預けられていました。

 

1180年の「富士川の戦い」で会うまで二人は会っていないという説が濃厚のようです。

 

鎌倉殿の13人では「富士川の戦い」で水鳥の羽音を平氏の軍が源氏の夜襲が来た!と勘違いして逃げ去ったため戦わずして源氏が勝利したというふうに描かれていました。

 

が、その説の可能性は低く、寄せ集めの平氏の軍が兵糧も不足していたため士気が下がりきってしまって戦わずに逃げ去ってしまいました。

 

そして、ここで一機に京都に攻め込みたい頼朝の元に藤原秀衡の元に身を寄せていた義経は兄である頼朝の挙兵を聞き、弟としてなんとしても兄の力になりたいという強い思いではせ参じたそうです。

 

 

義経の壇ノ浦の戦いでの活躍

 

1185年3月24日、壇之浦の戦いが義経の人生のピークだったかもしれません。

潮の流れにのって襲ってきた平家軍に対して、義経は反則技である水夫を狙うという戦法に打って出て船の機動力を奪われた平家はどんどん戦力を失い結果、源氏が勝利をおさめます。

 

頼朝と義経が対立することになった理由

 

「吾妻鏡」によれば、壇之浦の戦いの後、梶原景時は頼朝にある書状を送ったとあります。

その内容は義経が頼朝に内緒で後白河法皇から冠位をもらってしまうなど、数々の身勝手な振る舞いについてでした。

その書状を見て激怒した頼朝は義経を勘当することを伝える書状を景時に送ったそうです。

 

義経と静御前との別れ最期も合わせて紹介!

頼朝が激怒したとき京都に身を置いていた義経は静御前と一緒にいました。

義経は静御前と平泉に向かいましたが、義経は雪の降る奈良の吉野の山中で静御前に身を隠すよう言い聞かせます。

しかし静御前は捕まり鎌倉へ送られます。

 

「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

 

鎌倉に送られた静御前は頼朝の前でこの歌を歌いながら舞いますが、義経を想う内容のためこれまた頼朝が激怒し殺そうとしますが、政子が頼朝を説得して殺されずに済んだそうです。

 

一方、平泉に戻った義経であったが、秀衡亡き後、息子の泰衡は頼朝の指示を受け義経を襲います。

義経は一切戦うことはせず、持仏堂に籠って、正妻の郷御膳と4歳の女の子を殺害後、31歳で自害したそうです。

 

なので頼朝が直接的に義経を殺したわけでは無いですが、そこまで追い詰めてしまった頼朝は怖い人ですね。

 

義経のことを可哀そうに想う人が同情して応援したことから「判官びいき」という言葉が生まれたそうです。

 

まとめ

義経があまりにも強かったので、勝手に後白河法皇にアプローチしたことで小心者の頼朝は不安でしかたなくなり義経を追い詰めてしまったということですが、それにしても酷い話ですよね。

確かに義経はお調子者なので、放っておくと頼朝を脅かす存在になっていた可能性も否めませんね。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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